核
より顔芸の輩より、地球神。語り部の余りの低脳とキャラに「認めたくない。」翻弄されてるだけで、国家機関も、専門家も予測できなかった。その力は、人知では図り知れない。心置きなく進軍すべし。
侵害
専門家も唸る「自己基準、他者基準の理論」を、知っていながら、現象化を目にしながら、自分に留め置く事は、大衆の信教の自由を侵害してる事態でもある。誰がゆったの問題ではない。自分の専門と、自分の言葉で伝えよ。
役割
「疑わしきは被告人の利益…。」は事後的裁判の話で、事実上の第4国家機関、正規メディアは、疑わしき場合、迅速に公表、その不公平の拡大を間口で予防すべく、共同社会に警鐘を鳴らす役割がある。その迅速が、余りにテキト~だったり、個人攻撃や営利的スクープに傾くと、それ自体が不公平な問題が出るだけの話。
形式
「友人代表のスピーチ、歌・寸劇。両親への花束贈呈…姉貴にしては、そんな通俗的な…。」「じゃ、何しよう…。」「…。」葬式、結婚式、公務…不得意な事は、伝統や形式通り、事務的にやってれば、長年に渡って配慮された形だから、その時の感情に流され、思い付きでやるより、自動的に公平調整されて、恥かかず体裁が整う。それはい~けど、専門でやる人は時代の要請で微調整。改変してかんと、気が付いたら時代遅れ。レトロ趣味ならい~けど、不公平じゃ…。
相対(続き)
「従って、高度の蓋然性とは、反対事実の存在の可能性を許さない程の確実性を志向した上で、犯罪の証明は充分であるという確信的な判断に基くものでなければならない。」甲府放火事件
「刑事裁判に於る有罪の認定に当って、合理的な疑いを差挟む余地の無い程度の立証が必要である処、情況証拠により事実認定すべき場合でも、直接証拠が無いのであるから、情況証拠によって認められる間接事実の中に、被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない、或いは、少なくとも説明が困難である事実関係が含まれていることを要するものとゆ~べきである。」平成22最判
価値観
の押し付け…。」その割に、東側も、民主主義や人権の言葉の響きや形式は好きみたい。そりゃま、歴史や経緯に理屈付けてりゃ、形式にしろ中身にしろ、どっちが正し~のか、訳分からなくなる。その点、神は明確。西でも東でも表でも裏でも、技術のイメージが有る方、凌駕する方しか相手にしない。その点、西でも東でも、力とデカさと多量で強権的にやってると、手間と時間のかかる成長プロセスや公平プロセスが面倒になり、カンフル剤用の気合と根性が、いきおい、技術論化して、専門家を気合と根性で使ってるうちに、時代の進化に遅れ、過激さだけ一人前の言動・顔芸ファイター。素人芸人になって来る。これは、古今西東、共通の傾向。
信教
の自由とは、少数者の自由、異端の自由♪」なんて教科書の隅の具体例や信者の人柄に引っ掛かって、擁護派も出るんだけど。も~少し具体的にゆ~と「法律に反しない異端の自由」つまり「泥棒しても、詐欺しても、強姦しても、人殺ししても許される神の教えの信教の自由は無い。」何故なら信教の自由自体が共同社会に於る権利であって(特定の宗教を擁護したり排斥する戦前の不公平な法は別として)共同社会の決めたルール(公平調整)を破壊する権利を認めると、他の権利と不公平になり、共同社会が成り立たず、保護の前提を欠くから。「信者は純粋だ。」論も、泥棒や人殺しだって、子供の頃は純粋な訳で。純粋だからそ~なったともゆえて、それは、捕まった後の情状や更生の話。因みに最近は、進化して、催眠術と伝えず催眠術をかけるマジシャン。「無知で、世間知らずで、社会の矛盾で悩む真面目な者を、特殊な条件に置き信じさせることが本当に信教の自由なのか、それ自体が犯罪じゃ…。」が論点。さらに、ソコに、コレで、「自我を崩壊させて、又は、自我の弱い者をターゲットに、こちらの基準を流し込む。それは、自由や愛国でなく洗脳。霊的に、他者基準じゃね。」と追い打ちかける。