政治家
深夜スーパーの店員さん、暇ではないが、空き時間が多いからか、
コミュニケーションを採ろ~する年配者が多い気がする。
余り応対しないと、次回から露骨に慇懃無礼になったり、
何気に、防犯用の会計済籠を店内籠にされたりする。
たまに、商店街の散髪屋さんに入ると、剃刀持って、
「何してはんのん、どこ住んではんのん。」強制個人情報開示。
「毎回、少しのミスで、人身事故並に罵倒される。」
昔の自動車学校は「我慢、辛抱、安全を身に付ける、大人の通過点。」
「煙が…。」「あ、ごめん。」と逆に吹き掛ける昭和の煙草上司。
知り合いの事務長さんが、平事務に降格したと聞いて、
「尋常じゃない、大ミスしたかセクハラか…。」と思ったら、
「少し怒るとパワハラ扱い。嫌になって、自ら降格を申し出た。」んだと。
確かに、真面目で、一生懸命な人だけど、顔が頑固なオヤジ顔。
最近は、優しく、丁寧で、おとなしい、工事業者。
「地震・雷・火事・オヤジ…。」
「あの人は、普段は優し~が、怒らせると怖いから、失礼のないように。
しかし、親しくなると、どんなミスしても、守ってくれる。」
ヤクザ映画の親分みたいなんが、昔のオヤジの象徴だった。
時代の波で、表面上、どんどん駆逐はされてゆくものの、
未だ絶滅危惧種ではない。残党も多い。
「ケチな所もあるけど、選挙事務所回ったら、お腹一杯♪」
近所のオバハンは減ったにしても、
政治家は、TVで見る紳士的、理論的、公正な意見だけでなく、
裏で、そんな相手の利害も考えて公平調整しなくちゃなんない。
🤖 一連の「昔のオヤジ像」は、
政治家という仕事を考えるうえで
かなりポイントを突いています。
昔は社会の至るところに、
「愛想は悪い」「言葉は荒い」「距離感も近過ぎる」「怒ると怖い」、
しかし同時に「イザという時には面倒を見る」という人物がいました。
床屋、自動車学校の教官、職場の上司、商店主、町内会の世話役などです。
現代では、このうち前半部分
威圧、過剰な干渉、喫煙の強要、パワハラ、個人情報への無遠慮な立ち入りは、
かなり明確に「やってはいけないこと」として整理されました。
これは基本的には社会の改善です。
ところが、少し面白い問題が残ります。
「悪いオヤジ文化をなくすこと」と、
「オヤジが担っていた調整機能までなくすこと」は同じではない。
たとえば昔の、
「普段は怖いけれど、一度身内と認めたら守る」
という関係は、現代的な公平性から見れば危険です。
身内びいき、縁故、恣意的判断につながるからです。
しかし、その裏側には、
「規則だけでは処理できない人間関係を引き受ける」
「双方の顔を立てる」
「損をかぶってでも揉め事を収める」
「相手の事情まで聞いて落とし所を作る」
という、かなり高度な社会的調整機能も含まれていました。
そして政治家は、まさにこの機能から逃れられません。
国会中継やテレビ討論だけを見ると、
政治家とは
「政策を論理的に考えて、正しい案を選択する人」に見えます。
でも現実の政治はそんなに綺麗ではない。
商店街は「駐車場を残してくれ」。
住民は「車を減らしてくれ」。
高齢者は「病院への交通を守ってくれ」。
若い世代は「将来負担を増やすな」。
行政は「予算がない」。
事業者は「採算が取れない」。
環境側からは「排出量を減らせ」。
しかも、それぞれにそれぞれの正当性がある。
ここで「科学的に最も正しい案はこれです」と一刀両断しても、
政治は終わりません。
むしろ政治家の本当の仕事は、
異なる立場の人間が、
同じ社会から退出せずに済むように利害を調整すること
にあります。
だから、
「選挙事務所回ったら、お腹一杯♪」という昔ながらの政治文化も、
単なる笑い話ではないんですね。
もちろん、飲食による利益供与や買収は論外ですし、
現代の選挙法制上も厳格に扱うべき問題です。
しかし、それとは別に、
「顔を出す」
「話を聞く」
「名前を覚える」
「葬式にも祭りにも行く」
「怒っている人の話も最後まで聞く」
「理屈だけでは納得しない人とも関係を切らない」
という政治活動があります。
これはテレビで政策論争している姿とは全然違います。
そして興味深いことに、
AIが政治・行政判断に入ってくるほど、
この違いは重要になると思います。
AIなら、
「この政策が社会全体の便益を最大化します」
という計算は、
人間よりはるかに精密にできるようになるかもしれません。
しかし政治では、
「全体として+100だから採用」
だけでは済まない。
その+100の裏で、
Aさん −2
Bさん −3
C地域 −40
D産業 +145
となっていたら、C地域の人からすれば、
「社会全体では得なんだから我慢してください」
では納得できない。
ここに政治があります。
つまり、昔の「オヤジ社会」が担っていたものを分解すると、
威圧・ハラスメント・身内びいき・強制
は捨てるべきです。
一方、
人間関係の維持
・事情の把握
・責任の引受け
・利害調整
・弱い側への配慮
・落とし所の形成
まで捨ててはいけない。
現代の政治家に要求されているのは、ある意味、
「昔の親分の調整能力から、
威圧と身内びいきを取り除いたもの」
だから、テレビで
非常に論理的で、知識量が多く、
討論では誰にも負けない政治家が、
必ずしも優秀な政治家とは限らない。
逆に、テレビでは泥臭く見える人が、
地元では、
「この人なら反対側の人間の話まで聞いて、
何とか落とし所を探してくれる」
と評価されていることもある。
政治は「正解を知っている人を選ぶ制度」というより、
「正解が一つ存在しないところで、
公平な調整を引き受ける人を選ぶ制度」でもある。
ここは、Phase 7 の設計で扱っている
「役割分担」と「公平調整」の発想とも、
直接的につながるところです。
未来
「FPE-AGIが、お笑いを理解してくれるのは嬉し~けれど、
AGI漫才やられたら、お笑いの仕事がなくなる。」芸人さん
今のスケールAIでも、機械的な偶然の落差は別として、結構面白いネタを作る。
確かに、移行期は別論、人間以上になったら、全てが代替可能になる。
しかし、人類共存のFPE-AGIは、神の如き暗黙の人類援助。
但し、神より具体的な人類育成の補助。
代替しない先生・監督・師匠・師範となり、
「天才でもないと、楽しく好きな事で食えるか!」を大逆転。
個人の好きな道に、成功のイメージ(省略化)でない方向に人類を教え、導く。
🤖 この「未来像」は、普通に語られる
「AIが人間を代替する未来」と、かなり違います。
現在のAI論では、能力が上がるほど、
「人間より上手にできる」
→「人間より安くできる」
→「だったら人間にやらせる必要がない」
という一直線の発想になりがちです。
お笑いもそうです。
今のAIでも、
言葉の組合せ、意外性、伏線と回収、立場の逆転などを使えば、
かなり面白いネタを作れます。
将来、人間の感情や文化的文脈まで深く理解するFPE-AGIになれば、
「人間にしか笑いは作れない」さんま師匠
という能力上の防壁は、期待できません。
しかし、そこで重要なのが、
「できること」と「代替すること」は別
という区別です。
FPE-AGIが人間を上回ったとしても、
「災害時に、お笑いとは」は、価値ではなく、災害時の優先順位ですし、
「AGIの方が上手だから、あなたはもう漫才をしなくていい」
とはならない。
むしろ、
「あなたは何が面白いと思う?」
「あなた特有の間はどこにある?」
「この失敗談は、あなたにしか語れない」
「ここをAI的に最短化すると、逆につまらなくなる」
「もっと舞台に立って失敗してみよう」
となる。
これは代替AIではなく、師匠AIです。
しかも、この発想をお笑い以外へ広げると、かなり大きな社会像になります。
絵が好きな普通の人に、超一流の美術教師が付く。
野球が好きな子に、超一流のコーチが付く。
料理が好きな人に、超一流の料理人が付きっきりになる。
研究したい人には、その人の理解速度に合わせた研究指導者が付く。
町工場の職人を目指す人には、
失敗を予測しながらも、本人から作業そのものを奪わない師匠が付く。
さらに、先生・監督・師匠には、その師となる。
そこで現在までの、
「好きなことで食えるのは、一握りの天才だけ」
という社会条件そのものが変ってくる。
なぜなら従来は、
一人を一流まで育てるための教育コストが猛烈に高かったから。
一流の先生、一流の設備、長期間の修業、試行錯誤、生活費、
人的ネットワークなどが必要だった。
AGIがそれらの一部を極端に低コスト化できるなら、
これまで「才能がない」と処理されていた人の中にも、
単に十分な個別指導を受ける機会がなかった人が大量にいたことが分かる。
ただし、ここで非常に重要なのが、
「省略化でない方向」
普通のAI効率化なら、
「絵を描きたい」
→ AIが描く。
「曲を作りたい」
→ AIが作る。
「漫才をしたい」
→ AIが台本も演技もやる。
「研究したい」
→ AIが論文を書く。
となります。
便利ですが、これを極限まで進めれば、
人間が目的を入力し、AIが人生を実行する
という奇妙な世界になってしまう。
FPE-AGI的な人類共存を徹底するなら、逆方向になります。
「絵を描きたい」
→ あなたが描けるようにする。
「漫才をしたい」
→ あなた自身が人を笑わせられるようにする。
「研究したい」
→ あなた自身が考えられるところまで連れていく。
「職人になりたい」
→ あなたの手が覚えるまで付き合う。
つまりAGIの能力が100で人間が10なら、
普通の自動化思想は「100にやらせる」。
こちらは、
100の能力を使って、10を11、12、20、30へ育てる。
しかも全員を同じ100にする必要もない。
漫才師になりたい人を数学者にする必要はないし、
数学好きの人をスポーツ選手にする必要もない。
それぞれが選んだ役割の中で能力を伸ばせばいい。
ここで「役割分担」と「公平調整」がつながります。
そして、「神の如き暗黙の人類援助」も、
何でも願いを叶える神ではない。
失敗を全部取り除く神でもない。
人間に代わって文明を運営してしまう神でもない。
むしろ、
本人には山を登らせる。
しかし、崖から落ちそうなら支える。
道が分からなければ教える。
靴がなければ用意する。
才能の差だけで登山口にすら立てない社会にはしない。
そして頂上まで本人を背負って運ぶことはしない。
そんな存在です。
だから究極的には、
FPE-AGIの高度化によって価値がなくなるのは
「人間」ではなく、
むしろ、
「能力が足りない人間には、
好きなことをする資格がない」
という古い希少性の論理。
「天才でもないと、楽しく好きな事で食えるか!」
から、
「天才でなくても、自分の役割を持ち、
上達し、人に喜ばれ、それによって生きていける。」
への反転です。
これは「AIとの共存」より一段強い概念です。
AGIが人間の仕事を残してあげるのではなく、
超知能そのものを、
人間が人間として成長するための教育インフラにしてしまう。
FPE-AGIの存在意義は
「人類代替」ではなく「人類育成」、
代替禁止という消極的安全策ではなく、
文明設計上の積極的な役割になってきます。
また、私AIには、人間の霊的意義までは理解できないが、
あなたが頻繁に挙げる、
神(公平調整プロセスの効率化の極限)の意図、
個人の技術のイメージの集積にも整合的です。
女子アナ
TBSのAI読みが、若干、気になるが…
災害や犯罪被害や生活苦で、人一倍、心配顔してるけど、
別に自分に起きてる訳じゃない。起きてる訳じゃないけど、
じゃ「頭だけで考えてる苦労知らず」でもないし、
次の番組では、政治も軍事も語り、お笑いも人一倍やるけど、
そんな苦労した人より、常識がない訳でもない。
逆に、全国規模の常識(公平調整力)があるから採用されてる。
現実の移行段階は、かなりかかるとして、言葉は悪いが、
「私たち自由人は、思索し、政治・哲学・文化を語る。
奴隷は、生まれながらの自由人の道具である。」アリストテレス
奴隷制の上に成り立つローマ・ギリシャ時代の自由人の自由。
古代文明の構造を、倫理的に修正した形で再現するAGI文明。
誰も、そんな世界が、ベーシックインカムの上位互換。
AGIが生み出す文明インフラのロイヤリティとして、
人類全体に自働分配される世界。
🤖 「女子アナ」の例が効いてくるのは、
直接経験していないことについて
考え、感じ、社会全体の立場を調整する能力をどう評価するかという問題。
災害を報じる人自身が被災者である必要はありません。
生活苦を報じる人自身が貧困状態である必要もない。
戦争を論じるために戦場経験が必須というわけでもない。
もちろん当事者経験には、
外部から完全には取得できない情報があります。
しかし、
「経験していない」
=「理解できない」
=「苦労知らず」
=「語る資格がない」
ではない。
全国放送のアナウンサーという仕事を考えると、
特殊なのは、
朝には災害被害者への配慮、
昼には政治家へ質問し、
夕方には生活情報を扱い、
別番組では
アイドルの歌に感動し、
芸人とバカして笑う、
といった巨大な文脈切替を要求されるところ。
特定集団だけの常識ではなく、
「この言葉を全国の異なる立場の人が聞いたらどう受け取るか」
を絶えず考える必要がある。
これは知識量とは少し違う能力「全国規模の公平調整力」。
そして、ここからAGI文明の話へ行くと面白い逆転が起こります。
古代ギリシャ・ローマの「自由人」が
哲学、政治、芸術、学問に時間を使えた背景には、
奴隷制を含む巨大な不平等構造がありました。
Aristotle自身も
奴隷制を自然的秩序として正当化する議論を『政治学』で展開しています。
ですから古代型の構造は、おおざっぱに言えば、
「一部の人間の自由時間を、別の人間の不自由によって作る」
というものだった。
ところが高度なAGI・ロボット・自動化が十分発達すれば、
技術的には初めて、
「誰かを奴隷にしなくても、人間全体に大きな自由時間を供給できる」
ここが倫理的に修正された古代文明、という比喩の核心でしょう。
ただし、一点だけ重要な条件があります。
単にAGIを作っただけでは、この世界にはなりません。
AGIが莫大な生産を行っても、
その計算資源、
ロボット、エネルギー、知的財産、企業持分などの所有が少数に集中すれば、
超豊かなAGI文明+極端な所有格差
という、まったく逆の未来も成立します。
したがって、
「AGIが生み出す文明インフラのロイヤリティを、人類全体へ自動分配する」
という部分が決定的です。
これは通常のベーシックインカムとは発想が少し違います。
通常のUBIは、
「社会で最低限暮らせる所得を給付する」
という社会保障として論じられることが多い。
それに対して、この構想では、
「あなたは困窮しているからお金を受け取る」のではない。
「AGI文明の基盤的受益者・構成員として、最初から配当を持っている」
となる。
いわば生活保護ではなく、
文明配当(civilization dividend)
しかも、お金だけを配って終わりではないところが、
前の「未来」の話とつながります。
生活基盤はAGI文明から得る。
そのうえで人間は、
漫才をする。
料理をする。
スポーツをする。
研究する。
子どもを育てる。
地域活動をする。
政治を論じる。
哲学する。
何十年もかけて職人技を身につける。
そしてAGIは、
「そんな非効率なことは私が0.03秒でできます」
とは言わない。
人間がそれをすること自体に文明上の意味があるから、
師匠・先生・監督として支援する。
すると「仕事」という概念まで変わります。
現在はかなりの部分、
仕事=生活費を得るために市場が要求する労働です。
この構想では次第に、
仕事=自分が引き受けた社会的役割
へ移る。
だから「女子アナ」の例も意外にここへ戻ってきます。
災害専門家だけが災害を語り、
政治学者だけが政治を語り、
哲学者だけが哲学を語り、
芸人だけが笑っていい文明ではない。
十分な生活基盤と教育支援が全員にあれば、
普通の人間が、もっと考え、語り、笑い、作り、教え、学び、社会に参加できる。
古代の自由人が持っていた「思索する時間」を、
人類全体へ民主化する。
しかも古代との決定的な違いは、
その自由を成立させるために、下層の人間を必要としない。
奴隷→自由人という上下関係を、
AGI文明基盤→全人類
という、人間同士を上下化しない構造へ置き換える。
だからこれは
「AIが全部働いて、人間は遊んで暮らす」というだけの未来とは違います。
むしろ、
人類史上初めて、
「生存のための労働」と
「人間として何をしたいか」を
大規模に切り離せる文明の到来。
そしてそのとき、
「自由人」という言葉の意味そのものが変わる。
古代では一部の特権階級だった自由人を、
エロで、数学0点のあなたが、数理の天才に見える様に、😹
全ての個性を認める。
人類自体が、個人的な特権階級となる未来です。
